記事を3行で解説
➀史上初のデジタルコンピュータ「ABCマシン」を発明したのはアタナソフとベリー。
➁第二次世界大戦と特許申請の遅れにより、ABCマシンは解体され、その功績は長らくENIACに奪われた。
➂1973年の裁判で真実が認められ、アタナソフは「忘れられたコンピュータの父」として名誉を回復した。
世界初のコンピュータはENIACではなかった!?





その名は【ABCマシン】。

ENIACの開発秘話についてはコチラ!

「計算、もう無理!」天才の叫びが歴史を動かした

物語の主人公は、ジョン・ヴィンセント・アタナソフ。
1903年、ブルガリアからの移民の子としてニューヨークで生まれた彼は、まさにコンピューター開発のために生まれてきたような人物でした。
フロリダ大学で電気工学を、アイオワ州立大学大学院で数学を、更にウィスコンシン大学博士課程で物理学を学びます。
この3つの分野を究めたスーパーマン!
- 電気工学の知識(フロリダ大学)
- 数学の知識(アイオワ州立大学大学院)
- 物理学の博士号(ウィスコンシン大学)
しかし、そんな彼でさえも、博士論文を執筆中、手回し計算機を使ったあまりにも膨大な計算作業に音を上げてしまいます。
「もうこんな単純作業は機械に任せたい!もっと速く、正確に計算できる機械は作れないのか!?」
この人間味あふれる“うんざり感”こそが、歴史を動かす原動力となったのです。
やがて博士号を取ったアタナソフは、アイオワ州立大学へ助教授として就職すると、さっそく本格的に計算機の研究に取り掛かりました!




アタナソフ自身も、そうした手計算の膨大さにウンザリしてたわけじゃ


マシンに「Computer」と名付けたこと自体が、その目的をハッキリと示す、当時としては非常に挑戦的な意味合いを持っていたんじゃ
天啓は酒場で!ドライブ中に閃いた「4つの神託」

アイオワ州立大学の助教授になったアタナソフは、本格的に計算機の研究を始めます。
しかし、道は険しいものでした。
「計算の仕組みは歯車?それともリレー?いや、真空管か…?数字は10進法のままでいいのか、それとも…?」
6年間悩みに悩み抜いた彼に転機が訪れたのは、なんとドライブ中に立ち寄ったイリノイ州の酒場でした。
ウイスキーを片手にぼんやりしていたその時、まるで神の啓示のように、現代コンピュータの根幹をなす4つのアイデアが頭に降り注いできたのです!
- 電子式を採用! 時代は真空管だ!
- 二進法を使う! 「0」と「1」で世界を表現しよう!
- 演算とメモリは分離! それぞれの役割を分けるんだ!
- メモリは再生成(ダイナミック)方式で!
特に、当時アナログ部品と考えられていた真空管を「ON/OFF」のスイッチとして使うというデジタル的な発想は、まさに天才のひらめきでした。
当時真空管は、その増幅作用を期待されたアナログ用素子で、デジタルとして使用する方法は、誰も行っていなかったのです…!






運命の出会い!若き神童ベリーとの最強タッグ結成

最高のアイデアを思いついても、一人では形にできません。
そこでアタナソフの前に現れたのが、運命のパートナー、大学院生のクリフォード・ベリーでした。
1939年5月、大学から資金を得たアタナソフは、大学院生の研究助手クリフォード・ベリーと共に、計算機の制作を開始します。
ベリーは、非常に優秀で誠実な若者でした。
ベリーとの固い絆
1918年生まれのベリーは、小さい頃から神童と言われて育ちました。
高校生の時、父親が従業員に銃で撃たれて亡くなりますが、奨学金を得て大学に進学します。
1939年、アイオワ州立大学でアタナソフの助手になりました。
アタナソフは自伝の中で、「ABCマシンプロジェクトに於いて、私の最良の選択は、ベリーを助手に選んだことだ」と書いています。
また「ベリーの力なしでは、1942年にABCマシンを、あの状態にまで持って行けなかっただろう」とも言っています。
アタナソフはベリーの才能を心から信頼し、自身とベリーの名前の頭文字をとって、開発するマシンを「ABC(Atanasoff-Berry Computer)マシン」と名付けるほどでした。
二人の間には、単なる上司と部下ではない、固い絆があったのです。
ついに誕生!世界初のデジタルコンピュータ「ABCマシン」
1939年、二人はまず試作機を完成させ、その成功に自信を深めます。
そして1942年、ついに【ABCマシン】の主要部分が完成します。(※実用機の完成ではない)
そのスペックは、当時としては驚異的なものでした。
- サイズ:
- 大きめの事務机くらい(縦91cm・横150cm・高さ91cm)
- 頭脳(CPU):
- 真空管を約300本使用し、電子的に高速計算!
- 記憶(メモリ):
- 回転するドラムに1500個のコンデンサを配置した世界初ダイナミックメモリ(DRAM)を搭載!
- 計算能力:
- 29元までの連立一次方程式を解くことを目的に設計。
当時の計算機がグランドピアノほどの大きさだったことを考えると、驚くべきコンパクトさ!
(しかし重量は340kg、配線の総延長は1.6kmありましたが…)
まさに、現代のパソコンの「ご先祖様」と呼ぶにふさわしい、数々の革新的なアイデアが詰め込まれていました。
ABCマシンの能力と限界
ABCマシンは2進数を採用し、世界で初めてダイナミックメモリを備えるなど、独創的な特徴も持っており、真空管を使って電子的に計算をこなした、最初の計算機となりました。
しかし、二人を悩ましたのは、入出力時の誤作動でした。
ABCマシンが、完成品とならなかった原因は、ここにあります。
1万bitの入出力に、1回の割合で誤作動が起きました。
1行分1500bitを毎回入出力すると、29元連立方程式では、3行に1回の間違いが起こることになります。
一度ミスが出れば、それ以降の計算は無意味なものになりますから、この機械は実用品には程遠いものでした。


その最大の原因は、入出力装置の精度の低さにあったんじゃ




この「1万回に1回のミス」が致命的となり、大量の計算を正確に行うという目的を達成できなかったんじゃ
悲劇の始まり…戦争が引き裂いた夢と未来

しかし、ABCマシンがその真価を世界に示す前に、暗い影が忍び寄ります。
1941年、太平洋戦争が勃発。
アタナソフとベリーは、国の戦時研究に召集され、愛するABCマシンの開発から引き離されてしまったのです。
放置された特許申請
アタナソフはワシントンへ向かう前、特許申請に必要な35ページの詳細な書類を大学の担当者に託していました。
しかし、戦時下の混乱や大学側の無関心により、この申請は一度も提出されることなく、歴史の闇に葬られてしまいます。
無残な解体
二人が去った後、ABCマシンは大学の地下室に放置されました。
機械は大学物理棟の地下室に、完成後放置されたままでした。
アタナソフは、一人の優秀で信頼できる大学院生に、あとの管理を任せました。
しかし1948年、新しい設備を入れるスペースを確保するためという理由で、アタナソフに何の連絡もないまま、ABCマシンは無残にも解体されてしまいました。
アタナソフは戦後も、1951年の後半まで軍事研究に携わっており、アイオワ州立大学へ戻ることは出来ませんでした。
現在、アイオワ州立大学には、その一部であるメモリドラムが寂しく残されています。


すると、IBMやその後のコンピュータ企業は、黎明期にデジタルコンピュータを製造するたびに、アイオワ州立大学へライセンス料を支払う必要があった可能性がある



【歴史の逆転劇】法廷が認めた「忘れられたコンピュータの父」

戦後、世界は「ENIAC」や「EDSAC」の登場に熱狂し、それらが「最初のコンピュータ」として歴史に刻まれました。
ABCマシンの存在は、完全に忘れ去られていたのです。
しかし、物語はここで終わりません。1973年、ENIACの特許を巡る裁判で、歴史的な判決が下されます。
「ENIACの基本原理は、アタナソフが発明したABCマシンが元になっている。よってENIACの特許は無効とする」
法廷が、ついに真実の扉を開いた瞬間でした。
この判決により、ジョン・アタナソフは「忘れられたコンピュータの父(Forgotten father of computers)」として、ついに正当な評価を受けることになります。
1990年、彼はジョージ・H・W・ブッシュ大統領から、アメリカの科学技術における最高の栄誉である【アメリカ国家技術賞】を授与されました。
長年の功績が認められたのです。
しかし、その栄光の場に、最高のパートナーであったベリーの姿はありませんでした。
彼は戦後、技術者として華々しいキャリアを築きましたが、1963年、45歳の若さで謎の死を遂げていたのです。




人の良いアタナソフは、彼を歓迎し、稼働するABCマシンの実物を見せ、その設計思想や技術的な詳細を記した35ページの解説書まで読ませてあげたんじゃ




世界初のデジタルコンピュータの発明者
1973年の裁判で「世界初のデジタルコンピュータの発明者」として認められたアタナソフ。
多くの人は「これで彼はENIACの特許料で莫大な富を得たのだろう」と考えがちですが、実はそうではありません。
この裁判の判決は、「ENIACの特許は、アタナソフの先行発明があったため無効である」というものでした。
つまり、特許がENIAC側からアタナソフに移ったわけではなく、特許そのものが消滅してしまったのです。
そのため、アタナソフが誰かから特許使用料を受け取ることはありませんでした。
彼は裁判によって失われた「名誉」を回復しましたが、直接的な金銭的利益は得ていません。
彼は戦後、大学には戻らず、自身で会社を立ち上げるなど実業家として成功を収めており、その手腕で財を成しました。
彼の物語は、富ではなく、真実と名誉を追い求めた科学者の物語だったのです。
アタナソフとベリーの精神を受け継いでいくあなたへ

アタナソフとベリーが生み出した「ABCマシン」。
ただ、その発明は日の目は見ませんでしたが、ENIACからEDVACという偉大な発明に繋がり、今の私たちの豊かな情報社会があります。
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