ARPANETの仕掛け人「 J・C・R・リックライダー」心理学者が見たインターネットの未来

記事監修
(株)ライトコード代表取締役 金城直樹
元フリーランスエンジニア。「自分で作ったものを自分で触れないのは物足りない」と考え、BtoC向けのWebアプリ・モバイルアプリ開発を専門とした(株)ライトコードを2011年に創業。
「好きを仕事にするエンジニア集団」を掲げ、現在、50人以上のエンジニアを束ねる。会社経営の傍ら、今だに第一線で活躍するエンジニアでもある。開発のことなら何でもござれな「何でも屋」。趣味は釣り。

記事を3行で解説

➀「真のインターネットの父」と呼ばれるJ・C・R・リックライダーは、エンジニアではなく心理学者だった。

➁彼はコンピュータを「人間とコンピュータの共生」を実現するパートナーと定義し、ARPAで研究に資金提供した。

➂このビジョンと「銀河間ネットワーク」構想が、リソース共有を目的としたARPANET(インターネットの原型)の哲学的支柱となった。

対象:フリーランスエンジニア以外にも読んで欲しい記事


「真」のインターネットの父?

カトウカトウ
「インターネットの父」って、実はたくさんいるのね
にゃん八にゃん八
TCP/IPを設計したヴィントン・サーフロバート・カーン、WWWを発明したティム・バーナーズ=リーなどだな
カトウカトウ
コンピュータって、昔は単なる計算機だったわけじゃないですか?
だけど、世界を繋ぐネットワークになると最初に考えた人は誰だったの?
聖徳聖徳
それは、J・C・R・リックライダーである~!
しかも、彼はエンジニアではなく、心理学者だったのである~
カトウカトウ
心理学者!?
どうやってインターネットを…?
にゃん八にゃん八
リックライダーという稀代の「ビジョナリー」だ。
心理学者として、人間の「思考」そのものを理解していたからこそ、現代のインターネット社会の設計図を半世紀も前に描き上げたのだ
聖徳聖徳
リックライダーが「真のインターネットの父」とも言われる所以でもある~
にゃん八にゃん八
今回は、 J・C・R・リックライダーがどうやってコンピュータの可能性に気づき、インターネットの前身となる「ARPANET」がどう実現されていったのかを見ていくぞ!
目次

心理学への興味と機械への愛情

J・C・R・リックライダーこと「ジョセフ・カール・ロブネット・リックライダー」は、1915年3月11日にミズーリ州セントルイスで生まれました。

父親は保険会社を経営しており、少年時代はそれなりに裕福に過ごしました。

免許を取れる年齢になると廃車を買ってもらい、それを自分で修理して乗り回すなど、機械いじりが彼の生涯の趣味となるほどでした。

高校を卒業するとミズーリ州のワシントン大学に進みますが、2年生のときに父親の保険会社が倒産

1年間休学してアルバイトの日々が始まります…!

心理学への目覚め

学費のため様々なところで働きましたが、バイトの一つに心理学科の実験用動物の世話というものがあり、ここで彼は心理学に興味を持ちます。

1937年にワシントン大学の大学院心理学科に進み、翌年には修士課程を修了。

修士論文は「猫の集団と睡眠について」というものでした。

ロチェスター大学の博士課程に進み、1942年には心理学の博士号を取得。

博士論文は「猫の聴覚皮質での周波数局在に関する電気的研究」でした。

カトウカトウ
どんだけ猫好きなんですか!
にゃん八にゃん八
猫好きに悪い人はいないな!キリッ
まあ、バイトの時に実験動物の猫の世話をしていたから愛着が湧いたのはあるだろうな
カトウカトウ
そういえば、全然インターネットの話に繋がりませんが…
にゃん八にゃん八
大学では心理学のほかにも数学科と物理学科も卒業しておる。
それらが結びついていくのはまだ先のことだ…!

人間と機械のインターフェース

リックライダーのキャリアの原点は、第二次世界大戦中にあります。

ハーバード大学の音響心理学研究所で彼が取り組んだのは、「爆撃機内の轟音の中で、どうすれば無線通信の明瞭度を上げるか」というアメリカ軍にとって大きな課題がありました。

彼はここで、人間の聴覚が「何を」聞いているかを徹底的に分析。

音声の「子音」を意図的に歪ませて強調する「ピーク・クリッピング」技術を開発し、通信の明瞭度を劇的に改善させました。

この経験は彼に強烈な”インスピレーション”を与えます。

「人間の能力(知覚)と、機械の能力(信号処理)は、互いに補完し合い、一つのシステムとして設計できるのではないか?」

これは、彼のキャリアを貫く「人間と機械のインターフェース(HCI)」というテーマの原点となりました。

SAGEプロジェクトと「対話」の発見

戦後、リックライダーはマサチューセッツ工科大学(MIT)に移り、冷戦下の巨大防空システム「SAGE(セージ)プロジェクト」に参加します。

これは、全米のレーダー情報を集約し、敵機を迎撃するリアルタイム・システムでした。

当時のコンピュータは、計算内容をパンチカードで投入し、何時間も待って結果を得る「バッチ処理」が常識でした。

しかし、SAGEは違いました。

オペレーターは画面に映る情報をライトペンで直接指示し、コンピュータが即座に反応を返します。

彼はここで歴史的な「発見」をします。

「コンピュータは、計算を待つだけの道具ではない。人間の思考のスピードと『対話』できるパートナーになり得る」

彼は、人間の思考プロセスが「問い→仮説→検証→次の問い」という対話的なループで進むことを心理学者として知っていました。

SAGEは、そのループにコンピュータが入り込める可能性を初めて示したのです。

人間とコンピュータの共生

MITでの研究のあと、リックライダーは「BBN(ボルト・ベラネク・アンド・ニューマン)社」に移籍します。

BBN社はハーバードの音響心理学研究所の所長だったベラネクが作った音響コンサルタントの会社で、劇場の音響設計などを行っていました。

1960年、リックライダーはコンピュータ史における最重要論文の一つを発表します。

これは技術論文ではなく、未来の哲学書でした。

「思考時間の85%は、創造的ではない」

BBN社に移籍したリックライダーは、まず自分自身を実験台にしました。

彼が自分の知的労働時間を分析した結果、衝撃的な結論に至ります。

「私の思考時間の85%は、本当に『考える』ことではなく、その準備(グラフの作成、データの検索、計算)に費やされている」

エンジニアなら、この問題を「効率化」や「自動化」と捉えるでしょう。

しかし心理学者リックライダーは、これを「人間の創造性の解放」の問題として捉えました。

彼にとって、コンピュータの役割は人間の仕事を「奪う」ことでも、「高速化」することでもありませんでした。

それは、人間が「人間らしい」創造的な思考(目標設定、仮説構築、直感的な飛躍)に集中できるよう、面倒な知的下準備から解放することでした。

「共生(Symbiosis)」という言葉に込めた思想

彼は、人間とコンピュータの関係を「マスターとスレイブ(主従)」や「道具」とは呼びませんでした。

あえて生物学用語である「共生(Symbiosis)」を選びました。

これは、「人間も、コンピュータも、互いに単独では到達できない高みへ、協力して到達する」というビジョンがありました。

人間が提供するもの直感、柔軟な思考、曖昧さの理解、目標設定
コンピュータが提供するもの高速な計算、膨大な記憶、厳密な論理展開

彼は、人間とコンピュータが「机を挟んで」対峙するのではなく、「同じ側」に座り、共通の問題に取り組む姿を想像しました。

これは、現代の「ペアプログラミング」や「AIとの協働」の概念を60年以上も前に予見したものでした。

にゃん八にゃん八
リックライダーはもともと機械好きじゃったから、機械と人間の両方が分かる研究者として重宝されたのは間違いない
カトウカトウ
リックライダーは自身の経験から、コンピュータの歩む道が分かっちゃったのね
にゃん八にゃん八
このころのコンピュータはOSもソフトもろくにない、ただの計算機だった時代だ。
それなのにすでにネット検索やクラウド的な使い方をもう考えていたのはスゴイな!
カトウカトウ
でも…
まだ理論だけですよね?
にゃん八にゃん八
(ΦωΦ)フフフ…
さあ、ここからリックライダーは自らの理論の実現に向け動き出すんだ!

冷戦の激化とARPA設立

リックライダーがBBNに移籍した1957年、ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功し、世界に衝撃が走ります。

いわゆる「スプートニクショック」です。

ソ連に後れを取ることを恐れたアイゼンハワー大統領は最先端の科学技術研究を軍事利用する組織「高等研究計画局(ARPA、アーパ)」の設立を指示します。

1961年、本格的に始動したARPAは、「気象予報」「諜報活動」「兵站」「通信」「戦闘シミュレーション」「訓練」などに情報処理技術を応用する研究に莫大な予算を付けます。

コンピュータと通信技術の向上が急務となりました。

そのプロジェクトを取りまとめ、先頭に立つ人物として白羽の矢が立ったのがリックライダーでした!

ARPAのIPTO局長に就任

1962年、キューバ危機が迫る中、リックライダーはARPAのIPTO(情報処理技術部)の局長に任命されます。

与えられた予算は年間1000万ドル。

リックライダーはこれまでの人脈を生かし、優秀な人材に片っ端から声を掛けました。

人工知能研究の最先端を行くマービン・ミンスキージョン・マッカーシーエド・フェイゲンバウム

最高性能のコンピュータを持つMITや世界初のソフトウェア開発会社SDC(System Development Corporation)。

リンカーン研究所でレーダー技術グループを率いていたロバート・ファノ

「人間とコンピュータの共生」に感銘を受けたダグラス・エンゲルバードなども、リックライダーのもとに集結しました。

そして、リックライダーは様々な研究者や研究機関に惜しげもなく予算をバラまきました!

マービン・ミンスキーについてはコチラ!

タイム・シェアリング・システム

まず構築すべきは「タイム・シェアリング・システム」でした。

当時のコンピュータは非常に高価で、個人が占有できるものではありませんでした。

しかし、人間が入力するスピードとコンピュータが計算するスピードでは、圧倒的にコンピュータが速いのは明白。

ということは入力待ちの間、コンピュータは時間を無駄にしていることになります。

ならば、1台のコンピュータに複数の人間が同時接続して、CPUの「時間」を分割して利用しようと考えだされたのが「タイム・シェアリング・システム(TSS)」でした。

TSS開発の中心となったのはMITのロバート・ファノ率いる「Project MAC」で、リックライダーはここに多額の予算をつけました!

銀河間コンピュータ・ネットワーク

1963年、リックライダーは「銀河間コンピュータ・ネットワーク(Intergalactic Computer Network)の関係者各位へ」という文で始まるメモを各プロジェクトのメンバーたちに送りました。

銀河系全体にまでネットワークを広げようという、彼らしい大風呂敷でしたが、そのメモには作るべきネットワークの具体像が示されていました。

その核心は、「データの場所を意識せずに、どこからでもアクセスできる」という点にあります。

「いずれ、大陸を超えて接続されたコンピュータ・ネットワークが、図書館の機能を包含し、現代の図書館が人間の記憶を拡張するのと同じように、人間の知性を拡張するだろう」

彼は、ネットワークを「コンピュータ同士を繋ぐ線」とは見ていませんでした。

彼はそれを「分散化された、一つの巨大な知的リソース」として捉えていたのです。

このビジョンこそが、彼がARPAを去った後、後任のロバート・テイラーやラリー・ロバーツによって「ARPANET」として具体化されていく設計思想そのものでした。

ARPANETは、リックライダーの「銀河間ネットワーク」構想の最初の実験に過ぎなかったのです。

研究コミュニティのコンピュータを接続し、データやプログラムが相互に利用し、そのデータがどこにあるのかを知る必要もなく利用可能。

まさに「インターネット」そのものです。

このメモに基づくネットワークシステム「ARPANET」の実現を目指して多くのプロジェクトが同時並行的に動き出しました。

ロバート・ファノにより実用的なタイム・シェアリング・システム「CTSS」が完成します。

テレタイプ端末でMITから大陸を挟んだ西海岸のコンピュータに10人同時接続で利用することが可能でした!

カトウカトウ
「タイム・シェアリング・システム」のためにネットワークが必要とされたわけですか?
聖徳聖徳
グロッシュの法則」というのがある~。
コンピュータの性能は価格の2乗に比例するというものである~
カトウカトウ
つまり?
にゃん八にゃん八
1000万円と5000万円コンピュータがあれば、価格差は5倍じゃが、性能差は5の2乗で25倍あるということだ。
つまり、1000万円のやつを5台買うより、5000万円を25人でシェアしたほうが効率的ということだ
カトウカトウ
なるほど!
昔はコンピュータは貴重だったから、後にパソコンの量産効果が発揮されるようになるまで、「タイム・シェアリング・システム」は重要な技術だったんだ

ARPANETの誕生

リックライダー、ARPAを離れる

ひと通りプロジェクトが動き出すと、リックライダーはIPTOの局長の座をアイヴァン・サザランドに譲ってしまいます。

サザランドは、かつてリックライダーが開発したライトペンとディスプレイ・システムを使って様々な図形を描ける「Sketchpad」を開発した人物です。

引退に際して、IPTOの予算を年間1500万ドルに増額することをARPA上層部に認めさせました。

後進のためにしっかり環境を整えたうえで、リックライダーは1964年6月、ARPAを離れました。

彼がARPAにいたのはわずか1年7カ月ほどでした。

しかし、その間にまいた様々な”種”は、後のIT業界に大きな影響を及ぼすことになるのでした。

明確なネット社会のイメージ

ARPAを辞めたリックライダーはIBMに入社。

そこで、GUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェース)を使って直感的にプログラミングする研究を始めます。

彼の構想は常に時代の先へ行っていました。

1965年、IPTOはロバート・テイラーが3代目局長に就任。

テイラーもリックライダーの「人間とコンピュータの共生」に魅せられた人物の一人で、共同で「コミュニケーション・デバイスとしてのコンピュータ」という論文を書きました。

ここで彼は将来はコンピュータにより「豊富な生きた情報を対話型で利用でき、本や図書館を受動的に利用するだけでなく、共同作業に積極的に参加できるようになる」と主張します。

そして、「電子商取引」「デジタル・ライブラリ」「オンライン・コラボレーション」などが可能となる未来像を示しました。

より明確にネット社会の将来像が描かれています。

はじめての「ログイン」物語

1968年6月、後にIPTO4代目局長となるローレンス・ロバーツは全米4つの大学を相互に結ぶ「ARPANET」を立ち上げることを宣言します。

ロバーツはBBN社のロバート・カーンとともに、「Interface Message Processor(IMP)」という、ネットワーク間のパケット転送を行う装置を開発しました。

これは現在の「ルーター」の原型となりました。

1969年10月29日、このIMPを取り付けた最初のARPANETのリンクが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校とスタンフォード研究所 (SRI) の間に確立されました。

UCLAのレナード・クラインロックの研究室からSRIのダグラス・エンゲルバートの研究室に向けメッセージが送信されました。

最初の文字は「l」、次に「o」…

そこでシステムがクラッシュ!

本当は「login」と送りたかったのですが、2文字しか送れませんでした。

この2文字がインターネット最初のメッセージとなったのです。

聖徳聖徳
最初の送信は2文字で途切れてしまったが、1時間後につなぎなおして、無事文章の送信に成功しているのである~
にゃん八にゃん八
やったー!
ここからインターネットが始まったのだ!
カトウカトウ
ちなみに「ARPANETは核攻撃に耐えるために作られた」って聞いたことありますが、本当なの?
にゃん八にゃん八
ああ、それはよく言われるているが、あれはウソ
カトウカトウ
ええ!?
ウソなんですか?
にゃん八にゃん八
確かにARPANETは中心を持たないネットワーク構成とパケット通信によって、簡単には途切れないネットワークを目指していた。
しかし、それは核攻撃うんぬんより、今見たように初期のノードはダウンしやすかったからなんだ!
聖徳聖徳
リックライダーと彼が資金を提供した研究者たちの最大の動機は、軍事ではなく「知的リソースの共有」だったのである~
にゃん八にゃん八
軍の要請に叶うものなのは確かじゃが、当時、高性能なコンピュータは数が少なかったから、なんとか遠くのマシンにつなげて作業したいという研究者の要望が優先されて作られたものだった
カトウカトウ
そうなんだ!
ARPANETは、核戦争を生き残るためではなく、高価な計算機資源を遠隔地から「共生的」に利用したいという、研究者たちの純粋な知的欲求から生まれたんだ~💡

ARPANETから「インターネット」へ

1969年
ARPANETは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校とユタ大学を加えて4つのノードで稼働を開始

これまではそれぞれのホストにつなげるには別々の端末が必要でしたが、相互につながり同じネットワーク上で操作が可能となりました。

1970年
1970年には13台、1972年に29台、1973年に40台と年を追うごと接続台数が増加

ネットワーク内で「電子メール」や「ファイル転送(FTP)」といった技術も生み出されていきます。

1973年
衛星回線を通じてノルウェーと接続し、地上回線でロンドンとつながり、地球規模に拡大
1975年
ARPANETが稼働状態にあることが公式に宣言

管理運営はARPAからアメリカ国防情報システム局に引き継がれます。

1981年
日本では東北大学がはじめてARPANETと接続

DECやヒューレット・パッカードといった企業からの接続も増えていきました。

1980年
軍に関係する部分が切り離され、ARPANETは研究機関のためのネットワークとして独立
1980年
NSF(全米科学財団)によって構築された「NSFNET」など、他のネットワークと接続

やがてそれは「インターネット」と呼ばれるようになりました。

コンピュータの「ジョニー・アップルシード」

アメリカの西部開拓時代に「ジョニー・アップルシード」と呼ばれた人がいました。

麻袋を着て鉄鍋をかぶり、はだしで国中を歩きながらリンゴの種を植えて回ったと伝説が残されています。

そこで、J・C・R・リックライダーを「コンピュータのジョニー・アップルシード」と呼ぶ人がいます。

未開の荒野だったコンピュータネットワークの地平を切り開き、彼がまいた「種」は、彼が去った後にこそ爆発的なイノベーションを生み出しました。

彼が資金とビジョンを提供した研究コミュニティから、現代のコンピュータ社会のほぼすべてが生まれました

いずれもリックライダーがいなければ生まれなかったかもしれません。

ロバート・カーンヴィントン・サーフとともにバラバラだったネットワーク技法を統一するため「TCP/IP」を開発しました。
ロバート・メトカーフ「Project MAC」のメンバーだったロバート・メトカーフは後に「イーサネット」を生み出します。
ケン・トンプソン同じく「Project MAC」のCTSSは「Multics」というOSの開発に発展し、「UNIX」として完成します。
ロバート・テイラーパロアルト研究所で最初のパソコン「ALTO」を作りました。
ダグラス・エンゲルバートNLSやハイパーテキスト、GUIの研究を続け、「マウス」を発明しています。

UNIXについては以下もチェック!

カトウカトウ
ひとつ気になることがあるのですが!
ARPANET って軍事目的で立ち上げられたはずですけど、あんまり軍事と関係なくないですか?
にゃん八にゃん八
気づいてしまったか…
でも、リックライダーも別にだます気はなかったと思うぞ。
ネットワークを構築し研究をはかどらせる事を優先したが、それで多くの技術が生まれ、結果的にアメリカの国益に大きく寄与したわけじゃからな
カトウカトウ
でも、直接軍事に関わらない研究だと、予算がつかなくなってしまうんじゃないの?
にゃん八にゃん八
うむ!
60年代後半にベトナム戦争が敗色濃厚になったあたりからアメリカ政府も焦りだして軍事と直接関係のない研究開発からは手を引いてしまう。
70年代以降、コンピュータやネットの進化は民間の手にゆだねられていったのだ
カトウカトウ
でも、そこからアップルやマイクロソフトが生まれてくるわけですか!
にゃん八にゃん八
その通り!
カトウカトウ
小さな種から”大きな花“がアメリカで沢山咲いたわけなので、最初に国がドーンとお金を出したのは正解だったのか💡
リックライダーの局長時代の選択も!
にゃん八にゃん八
今回は理解できたようだな!
カトウカトウ
完全に理解しました!
ここはひとつ社会の発展のためにも、ドーンと私にお金を!
にゃん八にゃん八
…それはない!

インターネット時代の幕開け

ARPAから離れたリックライダーは、その後MITに戻り「Project MAC」を指揮していましたが、1971年に辞任。

1974年には乞われてIPTOの局長に復帰しますが、時代は変わり、直接軍事とかかわりのない研究には、あまり予算が付けられなくなっていました。

それでも彼が60年代に立ち上げた人工知能の研究の存続に尽力し、1980年代にはエキスパートシステムの商用化にこぎつけました。

晩年はMITの教授となりますが、慢性的な喘息とパーキンソン病に苦しめられ、1990年6月、75歳で息を引き取りました。

彼の死の直前の2月、ARPANETは新しいネットワークに引き継がれ、正式に終了しました。

そして、この年の12月20日、ティム・バーナーズ=リーが世界初のウェブサイト(http://info.cern.ch/)を公開。

ついに、本格的なインターネットの時代が幕を開けました。

ティム・バーナーズ=リーについてはコチラ!

人間とコンピュータの共生

リックライダーは、ARPANETの運用も、WWWの誕生も見届けることなく、この世を去りました。

彼のキャリアは、常に時代の先を行き過ぎていました。

しかし、彼が「心理学者」として提示した「人間とコンピュータの共生」というビジョンは、現代においてこそ、最も重要な意味を持っています。

私たちは今、AIという、かつてない強力な”パートナー“を手にしようとしています。

多くの人々が「仕事が奪われる」という不安を抱く一方で、AIを「知的下準備」から解放してくれる最強のパートナーとして使いこなし、自らの「創造性」を最大化しようとする人々もいます。

これは、60年以上前にリックライダーが設定した「問い」そのものです。

J・C・R・リックライダーは、インターネットという「技術」を開発した一人ではありません。

彼は、私たちがその技術を使って「何を達成すべきか」という「哲学」と「目的」を、誰よりも深く、誰よりも早く設計した人物なのです!

平均収入は約765万円 !

最初のメッセージ「l」「o」が送られて50年以上が経ちました。

インターネットは人類の進歩にとって、大きなターニングポイントでした。

IT偉人だけではなく、一般のエンジニアの技術に対する想いが今のITの可能性を引き上げ、今や、ITエンジニアは不可欠な存在となりました。

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