記事を3行で解説
➀モークリーとエッカートは第二次世界大戦中、膨大な弾道計算を効率化するためにENIACを開発した。
➁ENIACは真空管17,468本を使った重さ30トンの巨大計算機で、従来の機械より1000倍以上速い処理を実現。
➂その後のEDVAC構想とノイマン型アーキテクチャへと発展し、現代コンピュータの礎となった。
“数字と戦争”が生んだ怪物


砲弾を撃つたびに必要な「弾道計算」に、1発分で20時間もかかっていたんじゃ

軍は頭を抱えていたのである~

それじゃ戦争どころじゃないわね

2人の発想は“電気で計算する機械”じゃった

真空管17,468本、重さ30トンの怪物である~!


それが現代コンピュータへの出発点となったのじゃ!

モークリーとエッカートの計算機

モークリーとエッカート
1907年、オハイオ州シンシナティでジョン・モークリーは生まれました。
父は、気象学者で自然科学や計算が日常にありました。
幼少期から好奇心と探究心を育み、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
物理学博士号取得後、ペンシルベニア大学ムーアスクール物理学教授に就任しました。
一方、もう1人の主役のジョン・プレスパー・エッカートは、1919年にペンシルベニア州フィラデルフィア生まれました。
幼少期から天才的な理系少年として育ち、ペンシルベニア大学で電子工学を専攻、ムーアスクール大学院では回路設計や真空管研究に没頭しました。
理論のみならず“現場のものづくり能力”も天才的な人物でした。
二人の出会い
1941年、第二次世界大戦にアメリカはまだ参戦していませんでしたが、参戦の準備を開始。
その準備の1つが、政府が支援してペンシルベニア大学で開かれた、「工学・科学・戦争管理の訓練プログラム」でした。
近代戦を戦うには、電気的・機械的に極めて精巧な武器を、操作できる要員が必要でした。
その講座に、ペンシルベニア大学ムーア・スクールの教授であったジョン・モークリーも参加していました。
当時、膨大な計算作業に忙殺されていたモークリーは「電気で作動する自動計算機を作りたい」と考えており、「そのためには電気工学の知識が必要になるだろう」と参加していたのでした。
そこには、ジョン・プレスバー・エッカートの姿もありました。
モークリーは講座の出席者に、計算機の構想と必要性を説きましたが、誰も関心を示しませんでした。
ただ1人、エッカートを除いては…!
同じ考えを持つ2人は急接近し、計算機の実現性について語り合いました。
1942年8月、モークリーは自分の構想の可能性を、「計算のための高速真空管の使用」と言うメモにまとめて、ペンシルベニア大学当局とアメリカ陸軍に送付。
でも、このメモへの返答はありませんでした…。
ハーマン・ゴールドスタイン将校との出会い
「なんとかせねば…」
アメリカ陸軍の中に、人力での弾道計算作業に限界を感じていた人物がいました。
膨大な作業量に頭を痛めていたのは、アメリカ陸軍弾道研究所のハーマン・ゴールドスタイン将校です。
ゴールドスタイン将校はムーア・スクールと交渉して、理科系の女子卒業生200人を「弾道計算手」として回してもらうことに成功しました。
しかし、計算手不足の根本的解決には至りませんでした。
そこでゴールドスタイン将校は、ペンシルベニア大学の35歳の物理学教授モークリーと、23歳の大学院生エッカートに目を付けました。
実は、モークリーが陸軍に提出したメモを目にしていたのです!



そこで、あらかじめそれらのデータをまとめた、【弾道表】と言うものを作っておいたんじゃな


陸軍は大量の計算手を動員したが、1枚の弾道表を作るのに、1ヶ月以上もかかったんじゃ

こんな事に時間がかかっていては、肝心の戦争が進められないんじゃないの?

アメリカ陸軍の人手不足は深刻だったんじゃ


ここで高速に演算してくれるコンピュータがあれば解決するわけか💡

アメリカ陸軍の力を得て夢が叶う

1943年6月、アメリカ陸軍はペンシルベニア大学ムーア・スクールとの間で契約を結びます。
その裏ではアメリカ海軍が、ハーバード大学やIBMとの共同で、ASCC(後のハーバード・マーク1)の開発を進めていました。
海軍には負けられない陸軍。開発を急いでいるのはこんな理由があったのです。
当時、計算作業には「電動計算機」が使われていました。
これは、歯車式の手回し計算機にモーターを付けて、速く動くようにしたものです。
微分方程式を解くための「微分解析機」もありました。
ENIACの目的は、この2つの機械を組み合わせた機能を、電子的に実現することでした。
その高速計算機は、【ENIAC】(Electronic Numerical Integrator And Computer 電子式数値積分器および計算機)と名付けられ、開発がスタートしました。
ただし、それぞれの思惑は一致せず、軍人であるゴールドスタイン将校は「弾道計算が早く出来れば良い」と考えましたが、モークリーとエッカートは汎用計算機を目指していました。
開発チーム結成
10人のエンジニアと、2人の数学者が開発チームの核となり、総勢200人のメンバーが集まりました。
全体の指揮はモークリー、エッカートが技術主任、政府側からはゴールドスタイン将校が代表として参加。
技術者の中には、『誰がコンピュータを発明したか』の著者、アーサー・ウォルター・パークスもいました。
作り上げようとしている高速計算機には、きわめて高い精度が求められました。
エッカートは、小さな部品の一つ一つにまで、厳格な基準を設定し、技術者はその要請に応え続けました。
ENIACが完成したのは終戦後だった
弾道計算の迅速化を願って開発されたENIACでしたが、完成したのは、1946年2月でした。
第二次世界大戦が終わって半年経過した頃でした…
しかし、アメリカ陸軍は「将来、必ず役に立つ」と信じ、1945年9月30日に契約満了となるはずでしたが契約を維持し続けました。
ENIACの完成式は1946年2月15日に行われ、こんなデモンストレーションが実施されました。
- 1秒間で5000回の加算
- 1秒間で500回の乗算
- 2乗および3乗の計算
- 正弦および余弦表の計算と、表の作成
- ENIACによるE-2の処理に、若干変更を加えたものを行うこと
最後のE-2の処理と言うのは、当時の最高機密「マンハッタン計画」に直接関係するものと言われています。
ENIACのお披露目は、大成功!
その後、期間限定で大学の科学者たちに無償使用が許されました。
その間、科学者が求める複雑な計算をこなしたENIACは、まさに世界初の汎用計算機の名に値するものでした!


これは相当巨大になっちゃったんじゃない?


総重量も30トンじゃ

ちなみにライバルだった海軍のハーバード・マーク1はどうだったの?



ただ、これでも工夫して故障は最小限に抑えたのじゃ


ただし、ENIACは計算に取り掛かるまでの手間が大変じゃった。
1週間がかりでプログラムの配線を終え、テストを行い、実際の計算は1時間、のような流れじゃ



ENIACからEDVACへ

政府が、正式にENIACを受け入れたのは、1946年6月30日。
同年11月9日、機械が設置されていたムーア・スクールから、アバディーンの陸軍施設への移動準備が始められます。
ENIACが弾道研究所で再び稼働し始めたのは、それから9ヶ月後でした。
何しろ30トンの引っ越しです。
軍の期待通り、ENIACが最初にこなした軍事面での有効な計算は、水素爆弾の衝撃波の計算でした。
人間が手回し計算機で行えば、100年はかかると見積もられた計算です。
プログラムのセットアップに、2週間かかったものの、ENIACは2時間でやってのけました!
EDVACへ進化させよ!
世界初の大規模電子計算機として華々しく登場しましたが、そのENIACにもいつかの技術的制約がありました。
ENIACはプログラムを物理的な配線盤の切り替えで実装するため、プログラムの変更に非常に時間がかかり、汎用計算機としての効率性を十分に発揮しにくいものでした。
こうした欠点の克服と高速で柔軟な計算システムの実現を目指して、既に1944年、ENIACの完成前に次世代機の構想がペンシルベニア大学で持ち上がりました。
これがEDVAC(Electronic Discrete Variable Automatic Computer)の計画でした。
EDVACの設計は、ENIACの技術的な経験や課題を踏まえ、「プログラムを記憶装置内に格納する」という画期的な発想のもとに進められました。
この「ストアード・プログラム方式」は、命令(プログラム)とデータを同じメモリ空間に置くことで、プログラムの切り替えが電気的な記憶装置の内容を変更するだけで済み、柔軟かつ高速に動作できるという画期的な原理でした。
この設計思想の立案において重要な役割を果たしたのが、プリンストン高等研究所の天才数学者ジョン・フォン・ノイマンでした。
ジョン・フォン・ノイマンの記事はコチラ

1944年から1945年にかけて彼はEDVACの論理設計に関わり、「EDVACに関する報告書の第一草稿」をまとめます。
この不完全ながらも詳細な101ページの文書は、プログラム内蔵方式の理念を初めて公開した重要な資料であり、その後「ノイマン型アーキテクチャ」としてコンピュータ史に深い影響を与えました。
EDVAC開発までの苦難
EDVACの開発は容易ではなく、数多くの技術的問題が発生。
それと並行して、「ペンシルベニア大学側」と「モークリー&エッカート」が特許権をめぐって対立し、それがプロジェクトの遅延を引き起こす一因となりました。
対立は最終的に二人が大学を離れて独立企業を設立するキッカケとなり、EDVAC開発チームの人材も移動するなど混乱を招きました。
技術的な難しさと人間関係の摩擦によって、EDVACの実稼働開始は1951年とENIACから5年も遅れました。


EDVACは現代コンピュータの始祖となったんじゃ

それが後続のコンピュータ開発に多大な影響を与えたのである~

EDVACは技術的には大成功したが必ずしも「世界初」とは言い切れない結果となったのは残念じゃ



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