記事を3行で解説
➀ノーラン・ブッシュネルは1972年にアタリを創業し、世界初の大ヒットビデオゲーム「ポン」でゲーム市場を開拓、「ビデオゲームの父」と呼ばれる存在になった。
➁若きスティーブ・ジョブズとウォズニアックにも影響を与え、後のAppleの礎に繋がる経験を提供する一方、アタリはワーナー売却後に経営方針の対立や「アタリショック」で衰退。
➂ノーランはその後も20以上の事業を手掛け、今なお革新を続ける起業家としてゲームとテクノロジーの未来を牽引している。
「ビデオゲームの父」ノーラン・ブッシュネル

そういえば昔は、ゲームってあったんですか?

1970年代に「スペースインベーダー」が大ブームになったんじゃ。
後に「ストリートファイター2」などの世界的ヒット作が生まれたりしたんじゃ



だが、市場を築いたという意味では「ノーラン・ブッシュネル」が1972年にアタリを創業した頃かのう

「アタリショック」で有名な会社?

誕生より崩壊の方が有名なのもかわいそうな話じゃがな…
今日のゲームの隆盛のきっかけを作った重要な会社でもある


ジョブズが?

コンピュータゲームの誕生からアタリの全盛期まで、くわしく解説しようかのう!
ノーラン・ブッシュネルのアタリ創業記

ノーラン・ブッシュネルは1943年、ユタ州ソルトレイクシティに近い町、クリアフィールドで生まれました。
幼少期からSF小説や数学、パズルに夢中となり、10歳でアマチュア無線に熱中するなど幼い頃から技術や創造性に溢れていた少年でした。
1961年にユタ州立大学に入り、後にユタ大学工学部に転入。
大学では電気工学とプログラミングを学びつつ、当時の最先端ゲーム『スペースウォー!』に出会います。
このゲームは宇宙戦をテーマにし、太陽の重力を活かした高度なシューティングゲームでしたが、高価すぎるPDP-1コンピュータ上でしか動かず商品化は断念を余儀なくされました。
近くの遊園地でアルバイトをしていた彼は「これを遊園地に置けば人気になるのでは?」と考えます。
しかし、PDP-1が12万ドルもすることを知り、断念することになります…
アンペックス社で仲間と出会う
1965年大学を卒業した後、世界初のテープレコーダー会社であるアンペックス社に入社します。
ここで、後に共にアタリを創業する「テッド・ダブニー」や「アラン・アルコーン」と出会います。
1970年、かつては高価だった電子部品が安くなっていることに気づいた彼は「スペースウォー!」のアーケードゲーム版の開発に取り掛かります。
すでに結婚して2人の子供がいましたが、次女を子供部屋から追い出して工作機械を持ち込み、夜な夜なゲーム作りに励みました。
史上初のアーケードゲームを発売するが…
そしてついに史上初のアーケードゲーム「コンピュータースペース」が完成します!
これを市場に投入するため、彼は同僚のテッド・ダブニーやラリー・ブライアンとともにゲーム機メーカーのナッチング・アソシエーツ社に移籍します。
1971年、「コンピュータースペース」を1500台制作しますが、結果は50台しか売れず大惨敗。
敗因はゲームが難しすぎたことでした…
大学生には好評だったものの、それ以外の世代にはまったくウケませんでした…
独立してアタリを設立

ゲームへの情熱が冷めないノーランは、1972年、「ラルフ・ベア」が作った世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」のプライベートショーを視察します。
「オデッセイ」は、これまでなかったテレビに繋いで遊ぶことができるゲーム機で、コントローラーもついており、今日の家庭用ゲーム機の原型です。
ノーランはこれに強く感銘を受け、独立して新会社を設立する決心をしました。
ブライアンは創業前に離脱してしまいましたが、アンペックスからついてきてくれたテッドとともに小さなガレージを借り、そこを事務所兼工作所とします。
社名は好きだった囲碁の用語から「アタリ」と命名しました。
アーケードゲーム「ポン」が大当たり
アタリ創業時、社員はノーランとテッドの2人。
3人目の社員として娘のベビーシッターだった女性を電話番兼受付嬢として雇います。
そして、アンペックス時代の同僚だった技術者、「アラン・アルコーン」を副社長兼エンジニアとして4人目の社員に引き抜きます。
ノーランはアランに、「オデッセイ」で見たテニスゲームを説明し、再現させました。
アランはいとも簡単に作り上げ、ノーランは出来上がったゲームは「ポン」と名付けました。
そして、ポンの筐体を設置してくれるお店も決まり、営業が開始。
「コンピュータースペース」の二の舞にならないように、毎日祈るような気持ちでソワソワしていました。
そして3日後、設置場所のオーナーから「コインが入れられなくなった」と苦情の電話が入りました。
大急ぎで駆け付け、硬貨箱を開いてみたところ、中にはコインがぎっしり。
あまりに多くの人が遊んだため、硬貨箱が満杯になり、コインが入らなくなっていたのです…!
ポンは記録的な大ヒット!
ポンは世界で初めて大ヒットしたビデオゲームとして歴史に名を刻み、ノーランの名声を不動のものとしました。


まあ実際、「ポン」の大ヒットをみた「オデッセイ」の開発者ラルフ・ベアは怒っていたんじゃがな


ノーランは「参考にはしたが、ポンの方がずっと面白い」と反論しておる


若き日のスティーブ・ジョブズ、アタリに就職

早速、ノーランはポンの増産に入ります。
手持ちの資金で材料を買い集め、組み立てて売り、売って得たお金で材料を買い、また組み立てて売るという自転車操業でした。
それでも原価400ドルで作ったポンは1200ドルで飛ぶように売れました。
たちまちガレージは手狭になり、となりのガレージも借り、さらに潰れたローラースケート場を借り、そこから最新設備の工場に移転と、9カ月で3回も引っ越しするという急成長を見せます。
そして、ノーランは人手が足りず、職業安定所に行って、ヒマそうにしている人間を片っ端から雇いました。
それでも人が足りず、求人広告をだすことにしました。
キャッチコピーはこんな感じ。
楽しく金を儲けよう
こんなコピーで一体どんな人が来るのでしょう?(笑)
この広告に引き寄せられた男こそ
なんと、若き日のスティーブ・ジョブズです!



やっぱりジョブズはアタリで大活躍したんですか?

じゃあ、若き日のジョブズがどうなったか見てみるぞ!
問題社員スティーブ・ジョブズ
1974年2月、18歳のジョブズは東洋思想に傾倒しており、インドへ行く旅費を稼ぎたくてアタリの門を叩きました。
「ロビーに汚いヒッピーが来て、雇ってくれるまで帰らないと居座っている」という報告を受け、ノーランはジョブズを面接しました。
ノーランはジョブズが情熱と才能をもっていることを見抜き、40人目の社員として採用します。
入社後のジョブズは長髪でシャワーも浴びず、サンダルで工場内をうろついては、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ、周りからの評判は最悪でした。
あげくの果てに上司のアランに「インドに行きたいから旅費を援助してほしい」と願い出ました。
流石にあきれ果てましたが、ミュンヘンに修理に行くという名目でドイツまでの旅費を出してあげました。
ジョブズは退社し、インドへと向かいました。





ジョブズ・リターン
念願のインドへ行き、赤痢にかかってひどい目に合って帰国したジョブズは、1975年初頭、アタリに復帰します。
ノーランは直々に新作ゲーム「ブレイクアウト(ブロックくずし)」の回路の部品削減をジョブズに命じました。
部品を減らした分、報酬を出すと約束されましたが、ジョブズにそんな技術はありません。
当時、スティーブ・ウォズニアックは、親友のジョブズに夜中にこっそりアタリの工場に招き入れてもらいゲームで遊んだり、勝手に回路を改造したりしていました。
ジョブズは彼に「ブレイクアウト」の部品削減を依頼します。
2人の天才
実はノーランは、ジョブズがウォズニアックを招き入れていることを知っており、彼に泣きつくことも計算済みでした。
「2人のどちらが天才か分かっていた」と言っています。
ウォズニアックは見事な技術で部品を減らしました。
しかし、あまりに複雑な回路は誰にも理解できませんでした。
そこで、ウォズニアックは、少し部品を増やしてわかりやすく修正しました。
ジョブズは報酬700ドルを山分けし半額の350ドルをウォズニアックに渡します。
しかし、ジョブズが受け取った報酬は実は5000ドルでした(笑)
後にこのことがバレ、2人の関係は一時的にギクシャクしたそうです。


人を見る目と使い方がとにかくうまかったんじゃ


だから、みんな大〇を吸いながら仕事をしていて、逮捕者が続出していたそうじゃ


大企業となったアタリとその終焉

1974年には、初の家庭用ゲーム機として、ポンの家庭用版「ホーム・ポン」を発売し、こちらも大ヒット。
資本金500ドルで始まったアタリは、翌年には320万ドル以上の売上を記録し、1975年には4,000万ドルに達します。
一方で業界は競争激化の様相を呈し、アーケードゲーム市場では続々と参入してきた他社にシェアを奪われていきます。
そこで、ROMカセットを差し替えできる家庭用ゲーム機「Atari 2600」の開発に着手しました。
しかし、ハードの研究開発には莫大な費用がかかり、ノーランは資金調達に苦しみます。
ゲーム業界はまだ若い業界なので銀行は冷淡です。
アタリを売却
そこで、自ら出資者を捜していたところ、映画会社のワーナーブラザースの親会社が興味を示しました。
1974年にアタリの株の半分以上をワーナーに売り、経営参加を認めました。
そして、1976年には全株を2800万ドルで売却しました。
この行動がアタリとノーランの運命を変えてしまうことになってしまうとはこの時は誰も知りません…
経営方針の違いで衝突
1977年9月、ついに「Atari 2600」が発売されました。(発売時の名称は「Atari VCS」)
しかし、発売当初の売れ行きは芳しくありません。
スピード経営が身上のノーランは、市場に出た技術はすでに過去のものとして、新たなゲーム機を作製しようとします。
しかし、「Atari 2600」のために大金を払ってアタリを買ったワーナーは納得できません。
今のまま「Atari 2600」で勝負しようとするワーナー側の経営陣とノーランは激しく対立することになってしまいます。
ワーナーによるノーラン追放
アタリはとにかく自由な社風で、服装もみな好き勝手で、ジャグジーに入りながら会議をするくらいでした。
しかし、アタリに乗り込んできたワーナーの社員たちはスーツ姿。
ノーランはゲームを開発するときも自らプレイして質を確認していましたが、ワーナーの役員は誰もゲームをしないタイプの人間でした。
対立は激化し、1978年にノーランは解任され、アタリを追い出されてしまいます…
その後のアタリ
ワーナーは新しいCEOを送り込み「Atari 2600」のテコ入れを試みます。
しかし、思うようにいきません。
売上が上向いたのは、1980年、日本で人気だった「スペースインベーダー」が移植され、これがキラーソフトとなりました。
1980年には200万台の「Atari 2600」が売れ、20億ドルの利益が得られました。
1982年には最大のヒットとなるナムコの「パックマン」が700万本のセールスを記録し、ワーナーの株価もうなぎ上りでした。
しかし、「パックマン」は実はかなり酷い出来でした。
アメリカの家庭用ゲーム機市場の大崩壊として有名な「アタリショック」が目の前に迫っています。
「アタリ退社後は5年間、競合する業務をしてはならない」という規定に縛られたノーランは、アタリの成長と崩壊を横目で見ているしかなかったのです。


この辺の話も面白いんじゃが、長くなるので、それはまた別のお話しということにしておこう




アタリショックでゲーム市場崩壊するもノーランは大富豪へ

その後アタリは、品質低下や1982年の『E.T.』の大失敗が重なりました。
翌年にはいわゆる「アタリショック」と呼ばれるゲーム市場の大崩壊を招きます。
ノーランは契約により5年間の競業禁止期間があったため、その光景をただ見つめることしかできませんでした。
一方でノーランは、アタリの株をワーナーに売った時点で1300万ドルの収入を得て大富豪となりました。
アタリ解任後も、それを元手にピザチェーンをゲームセンターと融合させた「チャックEチーズ」や教育ソフト、AR/VRといった先進技術関連の企業など20以上の事業を手がけています。
最新の彼は、2024年にもeスポーツテクノロジーズの基調講演を行うなど、常に時代の先端を走り続けています。
「シャワーでアイデアが浮かぶのは誰でもできる。だがシャワーを出て何かを実行する人だけが成功する」
彼の哲学は、上記のシンプルだが力強い言葉に集約されます。
これはまさに一貫した彼の行動力と革新性の表現であり、ゲーム産業のみならず起業家やクリエイターの心に深く響いています。
ノーランとジョブズの交流は続く
また、スティーブ・ジョブズとはアタリを辞めた後も様々な接点がありました。
「Apple I」の商品化の際、アタリに話が持ち込まれましたが実現はしませんでした。
また、「5万ドルでAppleの経営に参加しないか?」と持ち掛けられたこともありましたが、ノーランは断ってしまい、後になって「後悔している」と話しています。
しかし、その後もジョブズはノーランに様々な相談をし、助言を受けています。
特に人材登用や組織作りに関してのアドバイスが多く、その内容は「ぼくがジョブズに教えたこと」という本にまとめられています。
もし、アタリにやって来たジョブズをノーランが門前払いしていたら、その後の Apple の躍進はなかったかもしれません。
ウォズニアックも「Apple I」や「Apple II」を設計する際に、「ブレイクアウトの部品削減の経験が役に立った」と語っています。
「ビデオゲームの父」は「Appleの父」でもあるのかもしれません。
2025年の今も、ノーラン・ブッシュネルは新たな挑戦を続ける生ける伝説です。
彼の足跡は、「市場を切り拓き続ける行動する革新者」として今後も語り継がれることでしょう。
その活躍は過去の栄光のみにとどまらず、ゲームとテクノロジーの未来を牽引する原動力であり続けています。


確かに「コンピュータスペース」にしろ「ポン」にしろ、完全にオリジナルなものではない。
だが、良いアイデアを発見し、それを利用して新たな市場を作るというのは誰にでもできることではない




大きなことを成し遂げよ、フリーランス戦士!


ノーラン・ブッシュネルの精神を受け継いでいくあなたへ

ノーラン・ブッシュネルは、後のクリエイターに多大な影響を与えた重要な存在。
「とにかく行動」の精神はずっと忘れないようにしたいものです。
そんな、あなたも日々、革新が生まれているIT業界の最前線で挑戦を続けていることでしょう。
日々、生活のためにお金を稼ぐのに必死で、”楽しいからつくる“という気持ちを忙しさのあまり、忘れていませんか?
そんな一人で奮闘するフリーランスエンジニアにとって、頼もしい味方となるのが「エージェント」の存在。
高単価の優良案件をあなたに代わり獲得し、あなたがエンジニアの仕事だけに集中することができるようにサポートするのが、エージェントの仕事です。
エージェントの仕事
- 案件獲得までの営業を完全代行
- 本業だけに集中できるようにサポート
- 案件の利益が最大限になるように交渉してくれる
エージェントと契約するということは、あなたの収入を上げる契機でもあるのです!
エージェントによって手取りが変わる!?

そんな収入UPを目指す方のために、「マージンが最大10万円」という業界最安水準の画期的なエージェントサービスがあります。
エージェントサービスの手数料は一定ではなく、選ぶ業者によって、あなたの手取りが大きく上下することは、まずは知っておいていただきたい点の1つです。

このサービスを運営しているのは、現在、14期目のIT企業「ライトコード」。
代表は当時、フリーランスとして大手有名WEBサービスなどで活躍していました。
その中で、自身も不透明なマージンや労働環境に苦しんだ経験がありました。
業者によってマージン率は非公開で、報酬の内訳を公開していないことがほとんど。
未だに旧態依然とした状態が続く業界に一石投じるために、エンジニアへの利益還元と透明性を最優先に考えてスタートしたのが「ITANKEN(IT案件.com)」です!
エンジニアの手取りUPを実現させる5つのお約束

ITANKENのポイントはこの5つ。
①マージンが最大10万円で業界最安値水準(記事)
②支払いサイトは15日で業界トップクラス(記事)
③公平性と透明性を重視したお取引(記事)
④エージェントは人柄を重視(記事)
⑤開発責任者は元フリーランス(記事)
仕事内容や単価などでお困りのことがあれば、まずはお気軽にご相談くださいませ!
以下ボタンより、4つの項目に答えるだけの簡単登録(無料)のみでご利用いただけます。
最後まで読んでくれた方へ

現在、お祝い金キャンペーン実施中です!
ITANKENをご利用いただいたフリーランスの皆様への感謝の気持ちとして、案件稼働1ヶ月経過後の初回報酬支払い時に、現金30,000円をプレゼント中!
申請手続きは不要で、対象の方には自動で指定口座に振り込まれます。